「鉄の歴史」は「人間の歴史」であると言われるように鉄の歴史を知ることは人間の社会・技術・文化・文明を知ることでもある。石器時代から鉄器時代への移行は人類の生産力が発展した証であった。 近代国家発展のシンボルもまた「鉄」の生産高であり技術力であった。
わが国の歴史を見ても官営八幡製鉄所の創業で産業近代化の幕があき、「鉄は国家なり」のスローガンのもとにヒト・モノ・カネは製鉄業に集中し、戦前の軍国時代は言うまでもなく戦後の政治・経済すべてを強力な鉄鋼産業が主導した。戦災で壊滅した鉄鋼業は世界最新鋭の設備をもって福原・和歌山など国内沿海地区に再建され日本経済の奇跡的復活の立役者となった。
「たたら製鉄法」「日本刀の玉鋼技術」など、日本の風土に根ざして長い歴史の中で育まれてきた「鉄」の技術が近代産業を支える「産業の米」として一挙に開花したものと考えることもできる。
日本の例に見るまでもなく鉄の歴史は人間の匂いの濃い歴史なのである。 この意味で、人類は19世紀までの鉄の歴史について古典的な名著を三冊持ち、これらの本には19世紀20世紀の鉄の科学がすべて凝集されている。その第一はベックの『鉄の歴史全5巻』1884年〜1903年、第二はスミスの『金属組織学の歴史』1960年、第三はタイルコートの『冶金の歴史』1976年。である。
本書は、その『鉄の歴史』(原題:技術的および文化史的にみた鉄の歴史)の訳業に心血を注ぎ、生涯を捧げつくした男の物語である。 『鉄の歴史』は全5巻17分冊の大著で昭和43年から始まった刊行は昭和56年に終ったが、索引の別巻が完結したのは昭和61年になるという実に18年に及ぶ大事業であった。
この出版事業が関係者による不屈の奮闘によって達成されたことに違いはないのだが『翻訳文化賞』の栄誉に輝いたのは大著であったことだけによるものではない。その内容において「そのなかには19世紀の化学と物理と機械学と工学のヨーロッパにおける最新の学問のすべてが流れ込んでいる」と評された技術史的な側面とともに、著者が「頭脳の聡明さよりも心情の聡明さ」と「愛」によって語る「人間の歴史」そのものが訳者の人柄を真っ向に映す鏡面となって、人々の心を捉えて離さなかったからであろう。
マルクス主義的ヒューマニズムはキリスト教的ヒューマニズムに歩み寄ってこなければならないという信念に到達した著者の遺稿と友人・家族たちの暖かい筆は『鉄の歴史』=「人間の歴史」を語るのに中沢護人ほどふさわしい人物はいないことを何よりも物語っている。
『鉄の歴史』の著者ベック氏は1944年にヒトラー暗殺計画に失敗したドイツの将軍ベック氏の父であり、宗教学者中沢新一氏は中沢護人氏の甥であり、歴史家網野善彦夫人が実妹でることに「知の連鎖」を感じる思いである。
この書の刊行を推進した一人、松尾宗次氏が編集後記で「鉄を通して歴史を見る入門の書でもありたい願いをこめて編成した」といわれている。一人でも多くの若い人々が中沢護人氏を通して鉄と人間の関わりに触れてもらいたい。
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